僕は歩く。歩いている。
途方もない旅をしている。
旅と言えば旅なのかもしれない。
試練と言えば試練なのかもしれない。
僕にはどうでもよく思えた。
ここは、夢?
「ん」
ポケットに手を突っ込んだ。何かが指先に触れた。それをつまみ、ポケットから出してみた。
「飴だ」
健太から貰った飴。
いつぞやに貰った飴。
どうして入っている?
ポケットの中にはその飴しか入っていない。
青い飴と緑の飴と白い飴。
青い飴を手のひらに載せて、他の飴は元のポケットに戻した。手を揺れ動かしてそれを転がす。
「普通の飴か」
青い包み紙をゆっくりと開いていく。ふと、その手を止めた。頭の中に、声が響いてきたのだ。

『はいよ、青空の飴』
『青空?』
『そうさ。青空の下で食べるから、青空の飴。色も青だし、合ってるじゃん』
『ん』
『食べないのか?』
『ん』
『そうか…。じゃあ、食べるときは一緒だぞ』

そうか、あのときの。
「一緒か…」
三色の飴を眺める。何の変哲もない飴。でも、何かありそうな飴。
大事なときのために、とっておこう。
健太と食べるときのために。
開きかけた包み紙を閉じ直して、僕はそれをポケットに突っ込んだ。
「ん」
ここは夢の中かもしれないな。でも、夢にしては、はっきりと。
頬をつねっても、醒めない夢。
あたりを見回す。
白。白。白。真っ白。
何も無いなんて、それはそれでどこかおかしい。
歩けど歩けど、何も無い。人っ子一人、見られない。まるでただっ広い空のような。
突然、地震が起こった。
ぐらぐらと頭の中が揺れた。
だが、地震ではない。自分だけが揺れているような。頭が重く、真っ白に…。
そして、僕は倒れた。
倒れた直後に映し出された映像。

冷たい教室の床。
埃っぽい床。昨日、ちゃんと掃除していなかったな。
うっすらと意識が残っている。その目の先には健太がいる。
何か叫んでいる。
「武!」
僕を呼んでいるのか。
何か面白いものでも見つけたのかな。それとも、思いついたのかな。
…違う。
健太の顔は青かった。
恐怖。不安。心配。
どうして?
どうしてそんな顔をしているんだ?
「武、どうしたんだよ!起きてくれよ!」
…僕。
…僕は、僕がどうしたんだ…?
あぁ…。頭が痛む。
再び、頭に映像が流れ込んできた。
頭が焼けるように痛む。

視界がぼやけている。
ここは、どこだ…。
…病院?
健太がいる。叫んでいる。何も聞こえない。
泣いてるのか?
健太の、その向こうには、健太の親父がいる。白衣姿で、酷く憔悴しているようだ。
その横に母さんもいる。
何を喋っている?
僕は、どうなったんだ…?教えてくれよ。どうなったんだよ…。
『教えて欲しい?』
その声…どこかで聞いたことがある。
『教えてあげる』
突然ノイズと共に音が映像に流れ始める。
「…『Last Day』の可能性があるんだ!」
その声は、健太の親父の声。彼は、医者…。
『Last Day』。
本当なのか…?
頭がきりきりと痛み始める。
…ぅあっ、なんだよ…こんな、時に……。
再び僕は激しい頭痛に襲われた。

白い何もない地面に横たわっている。そして、僕は目を覚ました。
僕はあたりを見回す。
ここは、夢の中…。
夢…。
でも。これは。僕が。
『Last Day』。
だから?
「そう、なのか」
僕が…。
そんな…。
馬鹿な。
「は…はは」
なんだ、この気持ち。
なんて愉快なんだ。なんだか、愉快になってきたような。
「ははは…あははははは」
僕はおかしくなったのか。笑いが止まらない。渇ききった笑いが。

人間というものは、計り知れない壁に激突すると、とんでもない絶望感に襲われる。
そして、落ち込む。
だが、あまりにその負の感情が大きすぎると、人間は落ち込むことを忘れる。
自分の感情の抑制が効かなくなる。
終いには、考えることを忘れてしまうのだという。

そういえば、今、健太は、どうしているんだろう。
母さんは、無事なのだろうか。
「まぁ、いいや」
僕は、もう『あの世界』には戻れないんだ。
健太のいる世界に。
「少し…歩こうか」
僕は足を動かした。
一歩。また一歩と。
足を進めた。
これはどこまで続くのだろう?永遠?それとも、限りっていうものがあるのだろうか?
「ここは現実なのだろうか?」
僕はただただ、足を進める。
「それとも夢なのだろうか?」
何も考えず、目的も無しに、ただ歩く。疑問は絶えずして、この白い空間に洗い流される。
ふと足を止める。
真っ白な空を見上げる。
昔、健太が言っていた。その言葉が自然と耳に流れ込んでくる。
『夢ん中ってさ、何でもしたいことが出来るよな♪』
笑顔で、口笛交じりに僕に言ってくれたように思う。
「したい事か」
したい事 は別にない。
特に欲なんて元々持ち合わせていない。
辺りを見渡してみることにした。
何も無い。
そうだ。
「したい事」
何かを加えたい。
「ん」
地面を描きたい。
描く?どうやって?
僕は、願ってみた。
すると、何も無い空間に、地面が本当に描かれたのだ。
土の匂いがする。
暇潰しにはなるかな。
次は、蒼い空が欲しいな。
願い、描き、見て、匂いを楽しみ、また願う。
透き通った空。
川を流そう。
風が吹くように。
そこには堤防が、そこには緑の野原が。
どんどん加えよう。描いていくんだ。
僕の思うとおりに、ここは創り変えられる。
僕は何気なくその川を覗き込んだ。
綺麗な川だ。透き通っている。
川の水面に僕の顔が映っていた。
「あれ?」
僕は、なんて顔をしているのだろうか。
なんて目をしているのだろうか。
暗い目。死んだような目をしている。
僕は、こんなに愉快なのに。愉快…?
どうして、愉快なんだ…?
何かが違うような。
「♪」
ん…?
この歌を僕は知っている。どこかで聴いた、懐かしいメロディー。
「♪」
そうだ。
後ろを振り返ると、そこには、健太が寝そべっていた。そこに健太がいる。そこで、その場所で健太は口笛を吹いている。
「♪」
僕は目を見開いた。
僕は望んではいなかった。
健太の存在を加えようとも、望んでもいないのに、何故彼はここにいる。
僕は健太に気づかれないように堤防を上った。
だが、彼は気づいていたのか。僕が側にいるのを知っているかのように、健太は目を閉じて呟いた。
「気持ちいいな。やっぱ蒼い空の下は緑の野原に限る。だよな、武?」
いつもの「ん」を言う前に、健太は跡形もなく消えた。
僕はその場所を見つめる。
誰もいない。
幻を見ていたのか。
「…」
僕は歩く。
青空の下を。
緑の堤防の上を。
白い雲の下を。
僕の背後から風が吹いてきた。何かを感じさせる風。後ろを振り向くと、また健太が描かれた。
もちろん僕は望んでいない。
僕の目の前に現れた。
酷く憔悴しているようだ。
これは夢なのか。
夢ではないとするなら、何だというのだろうか。
でも、健太がいるんだ。
僕は心配になって声を掛けてしまった。
「どうしたんだい?浮かない顔して」
「ん」
健太は僕の方を見ず、身体をぴくりとも動かさなかった。
「何があったんだい?」
風が吹く。僕は髪を手で押さえた。
「ん」
健太は、ただ呆然と。
一つ、ため息をついた。
あ…。
その時、垣間見えたのだ。
彼は、灰色の目をしていた。
希望を失った目を。
絶望に浸った目を。
「分かるよ。その気持ち。僕と同じ…」
「ん。そう」
僕の言葉を遮るように、健太は呟いた。
沈黙が続く。
長くも短くもない沈黙。
僕は、重い唇を開いた。
「君は、何を見ているの?」
健太が消えていく。
手を伸ばす。
あと少し…。
「ねぇ、武。久し振り」
背後から女性の声。
その手が止まる。
聞き覚えのある、その声。
脳裏に浮かんだ一人の女性。
まさか…。
振り返るとそこには。
「美紀!」
どこかあどけなく、明るそうな小顔の顔立ち。
赤色の瞳に、ポニーテールがよく似合う。
そして、その澄んだ声。
「美紀、なのか…?」
「当たり前でしょ。何言ってるの?」
「嘘だ…お前が生きているはずは…。これは、夢なんだ…」
彼女の名前は、【裃 美紀】。
僕らは交際していた。
していたのだ。

二年前、彼女は事故で死んだ。
朝起きて朝食を食べていた時に、携帯電話の着信音が鳴り響いたのだ。
美紀からの着信。
僕と美紀の関係は、お互いの両親には隠している。何か言われるのを嫌うからだった。
慌てて部屋に戻り、鍵を閉めて、携帯を見つめる。
こんな朝早くから美紀から電話なんて掛けてきたことなんか一度もなかった。
嫌な予感がしていた。
僕は通話ボタンを押して、携帯を耳に当てた。
「もしもし。美紀?どうかした?」
携帯から発されたノイズ。美紀と思われる酷く荒れた呼吸音。騒がしく聞こえる人たちの声。車の走る音。救急車、パトカーのサイレンの音。
これだけの要素が揃えば、考えられる結論は一つ。そして、極めつけの声が。
『ごめんね…。私…もう、武に…会えないよ…』
弱々しく、必死に声を振り絞っているのが伝わってくる。
『武…本当に……めんね…』
僕は、何も言えなかった。何も返事をしてやれなかった。
それだけ衝撃が大き過ぎたんだ。

「でも、私は今、ここに居る」
「…」
「武。もういいじゃない?これでずっと一緒なんだよ」
「…いや、でも」
「現実がここなの。私が死んだのは夢の話。でしょ?」
「これが、現実?健太がいるのが現実のはず…。ここが、夢で…現実は…」
「深く考えちゃ駄目。私が生きているんだから、ここは現実に決まってるでしょ」
「いや…」
そう、なのか?
ん。
「そう…か」
そう、だ。そうだ。
何故だろう。
頭がぼーっとする。
「ねぇ、どこ行く?」
「えっ?」
「遊ばないの?せっかく、二人っきりになれたのに?」
「んー」
次第に景色が変わっていき、そこは様々な遊具が置いてある遊園地へと変わり果てた。
「やったぁ。武、これ乗ろうよ」
「ん」
ジェットコースターやジェットコースターやジェットコースターやジェットコースター。
つまり、ジェットコースターばかり乗り続けた。
僕は、ジェットコースターは嫌いなのに、乗り続けてしまった。
これぞ、地獄巡り。
当然、目が回り、気分が悪くなったのにも無理はない。
「武ぃ、どうしたのぉ?」
「ん…、ちょっと休憩…」
景観が左右に揺れる。
嗚咽感はあるが、我慢しよう。
「まだ12回しか乗ってないんだから、まだまだ乗り足りないの!」
「12回乗れば、十分だと…」
「分かった。仕方ないね。じゃあ、次はアレ!」
違う乗り物に変えたかと、少し期待した僕は馬鹿だった。
僕、唖然。
指差す方向。
それは…。
…ジェットコースター。
確かに違う種だが、乗り物としては変わりない。
「いじめだ…」
「何?何か言った?」
「別に、何も言ってない」
「じゃあ、乗ろうよ!ね?乗ろ!」
僕は、初めて地獄を見たような、感覚を得た。
結局、累計して138回、ジェットコースターに乗ってしまっていた。
時間なんてクソ食らえだ。
「わぁ、楽しかったね。あれ、武?どうしたの?」
「い…いや…、何でもないよ…。ただちょっと…走馬燈のようなものが見えただけ…」
「大袈裟だね。じゃあ、次はコレ!」

ここは時間が関係ないようだ。つまりは止まっていると言う事。
だが、精神的な耐力やら肉体的な体力はそのままらしい。
もしかしたら、ここで刺されたりしたら、死んでしまうのかもしれない。
でも、まぁいいや。
今を楽しもう。
楽しい、この今を失いたくないから。
美紀の事は、一度たりとも忘れた事なんてない。
今でも好きだ。
ああ、好きなんだ。
今が楽しい。
あれから、ずっと『楽しい』なんて思った事なんてなかった。
あれから?
あれからって…いつから?
…。
頭がぼーっとする。
ん。まぁ、いいか。
この世界は本当に最高…。

『楽しけりゃ、本当にそれでいいのか?』

頭の中によぎる声。
「…?」

『本当に、それでいいのか?』

「け、健太…?」
居るのか?ここに。
どこに居るんだよ?

『苦しいことも悲しいことも無かった事にするのか?』

どこに居るんだ?
辺りを見回す。
「どうしたの?武?」
「…いや」
「何?」

『楽しい事だけ考えて、それ以外の事を全て忘れて、お前は本当にそれで良いのかよ』

「健太の声が…」
頭に響く。
強く。強く。
波打つように。
「誰なの?」
「…親友なんだ」

『武、逃げるなよ。逃げて、何になるんだよ』

強く。さらに強く。
健太の声が大きくなっていく。
「駄目っ!聞いちゃ駄目!こっちに来て!」
美紀の形相が一変した。
何かを恐れている、心配している、焦っているような、そんな顔。
手を引っ張られて、連れて行かれる。
声が一際大きくなった。

『受け入れなきゃいけない事だってあるだろうよ』

受け入れなきゃいけない事?
「耳を傾けちゃ駄目!」
受け入れなきゃ…?
「駄目えぇぇぇぇっ!」
美紀の声が頭に響く。

『武、逃げるなよ』

だが、それも、放送の電源がオフになったようにぶつりと消えた。
さっきまでの遊園地がない。
美紀の姿もない。
「美紀…?」

『現実から目を背けるな』

空を、上を見上げる。
現実?
夢?
どっち?

『夢の中ってさ、自分のしたい事ができるよな』

後ろを振り向く。
ここは夢。
現実はどこ?
前に向き直る。
ここが現実。
夢はどこ?
健太、どこにいるんだ?
どこに、いるんだ?
居るなら、返事をしてくれ。もう一度、お前に会いたいんだ。
ここが夢だというのなら、健太が居るのなら、ここに出してくれ。
僕は目を閉じた。
何度も念じた。
何度も。何度も。
何回も。何回も。
幾度と。幾度と。
ずっと。ずっと。
そして、僕は目を開けた。
目の前にどこか懐かしい誰かがいる。
その目を見開いた。
「武、やっと会えたな」
そこには、健太がいた。
健太が立っていた。
「本当に、健太なのか…」
「ああ、俺だよ。心配させやがって、この大馬鹿野郎が」
「…長かった」
「ん?」
少し黙り込んで、しばらくしてから口を開いた。
「長い夢を見ていたんだ。とても、長い夢を」
「まだ、見てるだろ」
「ん。でも、僕の夢も、もうすぐ終わる。分かるんだ」
「じゃあ、さっさと帰らなくちゃな」
その声が耳の中で小さくこだまする。そして、だんだん弱くなる。
健太と一緒に笑った、あの一瞬の時が、今ふと甦った。
「違うんだ…健太。僕は、もう…」
懐かしい。とても、懐かしい。
「どうしたよ?」
その時に戻りたい。でも、
「帰れないんだ…」
「どういう事だよ?」
「帰りたい、だけど…」
でも、もう戻れない。
進むことも許されない。
頭の中で鳴り響く、警報器のようなサイレンの音。自分を押し潰すような圧迫感が、身体中を蝕んでいく。
答えは、分かっている。
それは、『時間』だ。
始まりがあれば、終わりもある。終わりのない世界なんて、どこにもない。
一瞬。そう、一瞬だった。何もかもが、一瞬。
最高のひとときは、数秒だった。
一瞬で、その時は過ぎ去った。
今、この世界は滅びようとしていた。
「おいおい、嘘だろ!」
「んー。無理みたいだね…」
僕が描いた景観がゆっくりと消えていく。消しゴムか、何かで消すように。
「諦めてんじゃねぇよ!」
全てが消えていく。
「『時間』なんだよ。僕は、戻れないんだ。健太、せめて君だけでも戻って欲しい。戻って、母さんに伝え、」
「馬っ鹿野郎!」
何もかも、全て。
「俺たちはずっと親友だろ?絶対に一緒に戻る、帰ると決めた!」
「でも、時間が」
「何も言うんじゃねぇよ。今、考えてんだ」
「…僕は、最高だった。健太のような親友がいて、本当に楽しかった」
「何言って、」
「…今まで、ありがとう」
「ふざけんなよ!俺は、お前を助けるためにここに来たんだ!」
「健太…」
「お前が死ぬなら、俺も死ぬぞ!」
「…それは、…弱ったなぁ」
苦笑した武は、俺の目の前から完全に消滅した。
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