爽やかな夏の空。
快晴で涼しげな風が吹いている。
川があって堤防がある。その土手は草原のように緑色に染まっている。緑のそこに寝そべりながら口笛を吹くのが俺の毎日の日課。
「♪」
蒼い空は本当に気持ちが良い。それに加えて、涼しげな風も、また格別。
「なんて、空は広いんだ」
手を空に向かって思い切り伸ばし、背伸びをする。そして、空を見る。
蒼い空をゆっくりと泳ぐ白い雲。蒼と白のコントラストは実に良い。
と、それが突然にして、暗く見えなくなった。
「ん?」
なんだ?人?
逆光で誰なのか分からない。それは、こう呟いた。
「ん?じゃないよ。いつまで寝てるんだい?とっくに約束の時間、過ぎてるじゃないか」
この声は…。
段々と目が慣れてきて、「あ」と呟く。
「まだ寝ぼけてるのかい」
親友で、幼馴染みの【真藤 武】。
「武」
「ん?」
「また見たよ。最近見る、いつも同じ夢」
「ん」
髪をなびかせて、右手に本を、左手に鞄を持つ武。どこか遠くを見つめている。昔っから変わらない。
「そう」
彼はどこを見ているのだろう。
蒼い空?
白い雲?
緑の山々?
彼の瞳には何が映っているだろう。
以前、武に聞いたことがある。
『武、お前、何を見てるんだ?』
『さぁね』
と。武はぽつりと呟いて
『僕にも分からないんだ』
助けを求めているのか求めていないのか、分からない境界線でとどまるようなその声を、俺は敢えて触れなかった。
ふと、右腕に巻いた腕時計に目をやる。
「んあっ!やっば、もうこんな時間かよ!」
「そうさっきから言ってる。話をちゃんと聞きなよ」
「悪ぃ」
笑って誤魔化す。
「行くよ」
本を脇に挟んで、手を差し伸べる武。
「ああ!」
その手をぐっと握って立ち上がる俺。
二人全力で走って、学校まで駆ける俺達。
「ふぅ」
ぎりぎり間に合って安堵の息を漏らす武。
「はっ」
その姿を見て笑う俺。
これも毎日の日課。
明日も。
そのはずだったんだ。
俺は病院に駆けつけた。
この病院は父さんが開業した病院。
武はここに運ばれた。
あれは、昼休みが終わってからの四限目が始まった直後の事だった。
五限目は、確か数学だったな。ん?待てよ…。
俺は鞄から数学のノートを引っ張り出して中を開いた。今日の日付、宿題の問題番号…その下は…。
真っ白。
しまった!宿題を家に忘れた、と見せかけてやり忘れてしまった!
武は俺の席の前。
肩をとんとんと叩く。武が振り向く。
その武が振り向く直前、俺は心の中で呟いた。「宿題のノートを丸写しするから貸してくれ」だなんて、流石に一週間連続で言えるはずがない。絶対にバレるわけにはいかないぞ、健太。分かっているな?俺は「宿題やってるに決まってるだろ。流石に一週間で学習するよ」オーラを自然に出しつつ、「ちょっと分からない問題があったんだ。武、貸してくれないか」だのと言ってノートを拝借。そして、全力かつ最速でノートを書き写す。後は、何喰わぬ顔で「流石、武」と言うだけ。簡単な事だろ、健太。
よし!
決心はついた。
俺は真顔で武に話しかけた。
「武。お前、ちゃんと宿題やってきたか?」
だが、何故かバレた。
「健太…もしか、」
武はむっと不機嫌な表情をしながら言っているのを断ち切るように、「頼む!」と俺は頭を自分の机に叩きつけた。
「ん。分かったよ。貸すから、頭上げて。恥ずかしいだろ」
「流石、武」
俺の計画とは大きく外れたが、終わり良ければ全て良しだな。
「はい。ノート、ちゃんと返しなよ」
俺はノートを武から受け取って、ペンを握る。
そのとき、何かが床に倒れ込む音がした。おそらく誰かの鞄が床に落ちたのだろう。見向きもしなかった。
武のノートを確認すると、量的に三ページ半。紙をめくり、その計算式を目に焼きつかせながら、「十分で写す」と呟いた。
だが、武は答えてくれなかった。いつもの「ん」を。
何故?どうして?
俺はまだ、計算式を目に焼きつけていた。疑問は頭に浮かばせながら。
唐突に、周りの女子たちの悲鳴が。武の名を呼ぶ声が。教室内をざわめく友人たちの声が。一斉に俺の耳に飛び込んできた。
さっき俺の頭に浮かんだ疑問の答えは、武に聞くまでもなかった。頭を上げれば答えはあった。
武が椅子から転げ落ちていたのだ。ただそれだけのこと。
それだけ?
それだけ、じゃない。床に倒れたままの武はまったく動かない。
数学の先生は血相を変えて懐から携帯を取り出して救急車を呼んでいる最中のようだった。
俺は倒れた武のそばに座り込んで肩に手を置いた。
「武、大丈夫か?」
俺は、武がゆっくりと目を開けて「ん」と言ってくれると願った。
武は、動かない。
「武…、武!しっかりしろよ!」
「藤代、離れるんだ。救急隊員が来た。後は任せよう」
先生の声。そして、教室の扉が勢いよく開く。
「救急の者ですが、倒れた生徒さんは?」
「あちらです」
救急隊員たちが武を取り囲む生徒たちの中をかき分けていく。そして、俺の前まで。
「離れてください!さぁ、離れて!」
俺は静かに立ち上がると、その場を言われた通りに離れた。
「呼吸は安定している。よし。病院に搬送するぞ」
「担架に乗せる。いくぞ。1、2、3!」
俺が聞いた救急隊員の声はそれだけだった。その後の発言は覚えていない。
受付に行き、どの病棟、どこの病室かを聞き、俺は再び病院内を走り回った。
張り紙『病院内は静かに』。そんなもの目に入る訳もなく、俺は武のいる病室の扉を開いた。
「武!武!」
俺と武の間には一枚のガラスが隔ててあった。武を隔離しているようだ。
向こう側には防護服を来た医師や看護師やらが検査を黙々と続けている。
隔離システムなのか。それほどやばい病気なのだろうか。
ガラスの向こうには病院の白いベッドに寝かされた武が死んだように眠っている。
こちらの声は完全に遮断されているらしい。
一際甲高い声が室内に響き渡った。
「藤代先生、うちの武はどうなんですか!」
武のお母さん、【真藤 満江】さんだ。
よく武の家に遊びに行って、お茶を出してくれた人だ。優しくて、子供には人一倍厳しい人。
武は怒られても「ん」しか言わなかったから、呆れられていたな…。
でも、今の顔は涙でくしゃくしゃになっている。
「病名は何なんです」
満江さんの話す相手、つまり武の担当医は、やっぱり父さんだ。
名前は【藤代 秀喜】。
救急患者や、重症患者は全て父さんが治療している。
父さんには医者の中の医者とも言える、誰にも負けない熱意があるのを知っていた。何事にも冷静に対処し、消えそうな命を救ったり、治せない患者なんていなかった。
だから、半分は安心していた。きっと治るだろう、と。
だが、もう半分は違っていた。不安。嫌な予感とも言える。
「武君の病名だが、何て言えば良いのか…」
顔行きがどんどん曇っていく。そのうえ、下唇をかみしめ、両拳を握りしめてわなわなと震わせている。
「あ、ありのままの事を…。正直にお願いします、先生」
「それが…」
「…はい」
「分からないんだ」
「分からないって…どういう事ですの!」
「この病状は、どの文献、どの論文、医学書を見ても存在しない。もっと言えば、この状態を病気だということ自体あり得ない」
「あ、あり得ない…?」
父さんは、俺の方を向くなり申し訳なさそうな表情をした。
「脈も正常、発熱もなく呼吸も正常。外傷も無し。CTも撮った。だが、何も無いと言われるばかり」
「じゃあ、健康体って事じゃ…!」
俺がつい割り込んでしまった。だが、父さんはその質問にも冷静に対応する。
「そう。何もかもが正常。にも関わらず!武君は未明の昏睡状態」
すらすらと何の間もなく言いのけた。
「何が言いたいのですか…?」
「医者として、私が言いたいのは。これが武君の自作自演…。っ!」
父さんの顔が真横に向く。一瞬の出来事だった。満江さんが父さんの顔を引っ叩いたのだ。
満江さんの目に涙が溜まる。その涙が耐えきれずに頬に落ちて、伝い地面に落ちる。その地面に落ちた涙を満江さんは足で踏みつぶした。
「そんなっ、そんな馬鹿なことを言わないで下さいよ!親を泣かせてまで、自作自演をする子が何処にいますか!先生にもとうとう焼きが回りましたか!」
頬をさすりながら、父さんは涙目の満江さんに振り向きなおる。
「落ち着い、」
「これが落ち着いていられますか!先生、あなたは今、うちの武を侮辱したんですよ!今!ここで!まだ分かりませんか!せんせ、」
再び引っ叩こうとした満江さんの手を止めた父さんは、直ぐに口を開いた。
「最後まで話を聞くんだ!自作自演もしくは、」
「――――の可能性があるんだ!」
俺は、耳を疑った。おそらく満江さんも同じだろう。
嘘だろう。父さん、嘘だと言ってくれ。
「そんな…」
満江さんの膝が折れ、床に両手をついた。嗚咽と共にあふれ出す涙。
俺は眠ったままの武に目を移した。一枚のガラスを両拳で力一杯叩く。声が届かないと分かっていても、俺は叫んでいた。
武、頼む。目を覚ましてくれ。自作自演だったとしても、誰も責めないからさ。
両拳が血塗れになっても叩き続ける。だが、武は目を覚ますどころか、身体一つ動かさず、ただ死んだように寝ているだけ。
「落ち着くんだ。健太!」
父さんが俺をぐっと抱きすくめる。
満江さんの泣く声が聞こえる。
武が、そんな、そんな、そんな、武が。
『Last Day』だなんて…。
「ふわぁ~。ん?」
蒼い空の下、緑の野原。いつもの 日課。俺は、そこにいた。
「俺、寝ちまってたのか…ははっ」
何も変わらない、穏やかな日常。
俺は起き上がって辺りを見回す。
「武、待たせたな…って、……居ないんだったな」
心にぽっかりと開いた穴のようなもの。武が元気になって戻ってくれば元通りの生活に、日常に戻るはず。
「武…」
顔を上げる。
川の流れる音がする。
風の吹いている音がする。
俺は何を見ているんだろう。
俺の目には何が映っているのだろう。
「どうしたんだい?浮かない顔をして」
聞き覚えのある声がした。
でも、ここに武が居るはずがない。
「ん」
俺は身体をぴくりとも動かさず何かを見つめる。
「何があったんだい?」
風でなびく銀色の髪を押さえながら、彼は訪ねた。
「ん」
俺は何かを眺めていた。
何か、それは俺には分からない。
何も考えてはいなかった。
何も考えたくなかった。
「ふぅ」
ため息をついたようだ。
「分かるよ。その気持ち。僕と同じ…」
「ん。そう」
何かを言いかけていたが、もういいんだ。
沈黙が流れる。
長くも短くもない沈黙だった。
そして、その沈黙の崩壊が訪れた。
「君は、何を見ているの?」
どこかで聞いたことのある台詞を彼は口にした。俺は彼の方を向いた。彼の口元は微かに笑っているように見えた。
顔が見えない。まるで、霧のような。影だ。だが、顔に影なんかつくはずがない。逆光?それもない。そんな事はどうだっていい。
お前は、本当に…?
「た、けし…?」
「ん」
俺は夢を見ているのか。夢だとして、よりにもよって武が出る夢なんて。
「僕は倒れた。健太、君の目の前で」
「何…?」
これは、夢なのか。
夢じゃない、のか。
どっちなんだ。俺の中で、二つの選択肢が揺れる。
「これは夢かもしれない。現実かもしれない。ここは何処なのか?それは、僕にも分からない。そして僕は、あとわずかしか生きてられない」
「何で分かるんだよ」
「…」
「『Last Day』だからかよ」
「ん」
そう言うと片手に持っていた本をぱらぱらとめくり始めた。
「どうして醒まさないんだよ?」
「…」
「夢なら醒めるだろ?」
「…」
「武の母さんだって泣いて待ってる。俺だって待ってんだからよ」
「…」
武の手から、本がこぼれるように落ちた。
「戻ってきてくれよ、武!」
「……、戻れないんだ。僕は扉を開ける鍵を失くした…。だから」
「戻れない?逃げてるだけじゃんか!」
武の肩をぐっと握り締め、引き寄せた。
武は下を向いたまま、動かない。
「武を失ったら俺はどうすりゃ良いんだよ!」
「…」
武は、俺の手をいとも簡単に振り解き、そのまま俺に背を向けた。そして足を進める。
「おいっ!武!待てって!どこへ行くんだよ!」
どんどん離れていく。武が、俺の前から。
目が霞む。身体が揺らぐ。
待ってくれ、武。行っちゃ駄目だ。
俺に背を向け、歩く武。俺はその武を走って追いかける。
身体が重い。俺の追いかける速さより、彼は断然早く前を歩いていく。
最大限に手を伸ばして、口を思いっきり開いて、腹の底から。
「武ぃぃぃぃぃぃ!!!」
と、同時に俺は地面に倒れ伏した。
力が一気に抜け落ちる。
彼はだんだんぼやけていき、俺の視界から完全に消えた。俺に眠気が襲う。
「武…武…た…けし………け………ぃ……」
「――――武!」
青空なんかない。
白い天井。白いベッド。
ここは、病院?
そっか。
俺、あれから気を失ったのか…。
「健太、大丈夫なのか?」
横から、父さんの声が聞こえた。つきっきりだったのか、机の上には空の紙コップやらが幾つも置かれてあった。
「突然気を失って、そりゃあ、お前の昔っからの幼馴染みが倒れたんだから、無理もないが…。ほい、コーヒーだ」
俺の目の前に、まだ湯気の立っている紙コップを差し出した。
口を閉ざしたまま、首を横に振る。
「嫌いだったか?」
「今はいい」
「そう…か」
静かに机の上に置くと、父さんは心配そうに顔を覗き込んできた。
「何だよ?」
「さっきより顔色が悪い」
「気のせいだ」
「どうした?」
父さんは机の上のコーヒーの入ったコップに手を伸ばした。黙ったままの俺を眺めたまま、俺に渡そうとしたコーヒーを一口飲んだ。
その様子を黙って眺める俺。そして、眺めあう父さんの目がコーヒーに。
「あっ、いけね」
状況に気づいたのか、父さんは直ぐさまコップを戻した。もう湯気は立っていない。
「いいよ…別に」
そう言うと、頭を垂れるように俺はため息をついた。
沈黙。
何も喋ることが思い浮かばず、頭は武のことでいっぱい。あの夢の事も。
この沈黙はとにかく長かった。
と、唐突に、父さんはため息をついて立ち上がった。
そして、一、二歩歩いて、こう言った。
「いつからだ?妙な夢を見るのは」
「え?」
「最近か?」
俺は軽く頷いた。
父さんは「そうか」と言って、深く考え込んだ。
そして、沈黙。
この沈黙になって、俺の疑念が確信へと変わった。
父さんは、何か知っているんじゃないか?と。
「父さん…」
小さく呟く。
「ん?どうした?」
「俺さ、時折、そうなんじゃないかって思うことがあるんだ。俺…いや、俺も『Last Day』なんじゃないかって」
父さんの表情が険しくなる。
「何馬鹿なことを…」とでも言うのだろうか。
怒られてしまうのだろうか。
笑って済まされるのだろうか。
だが、その予測は全く外れていた。
「50点だな」
大真面目に答えは返ってきた。
だが、その意味が分からない。
「どういう…」
「お前は、正確には、『Harf Last Day Antibody』。医療用語で『H.LDA』【ハーフ エルダ】と言うんだが。その中でも希少な人間なんだ」
「…」
「人間の負の感情?」
「例えば、怒り。悲しみ。恨み。妬み。色々あるが、それが解消出来ずに溜まっていたりすると『Last Day』になる可能性が高まる」
「武の負の…、まさか…」と、父さんに聞こえない声で呟いた。
「その部分を解消すれば、武君を戻せるかもしれない。まぁ、あくまで俺の仮説の話だがな。忘れてくれ」
父さんは一息をついて、冷めたコーヒーを一口飲んだ。
「そういや、俺が、その…希少種?あれ、どういう意味だよ?」
父さんはごくりとコーヒーを飲んだ。俺に目を移し、そして揺らぐコーヒーの表面を見つめた。黒い面が、父さんの顔を映し出す。
「…お前は『Last Day』に侵された人間の夢に干渉することが出来る」
俺の全身に衝撃が走った。
でも、待てよ…。じゃあ、もしかすると、もしかすれば…。
武を助けられるんじゃないのか?
「まぁ、長年の研究の結論だな」
こんな事をしてる場合じゃないだろう。
俺はベッドから跳ね起きた。
「おい、健太。どこ行くんだ?」
武が消える前に。
俺は扉の前に立った直後、父さんは椅子をはじき飛ばす勢いで立ち上がった。
「お前、まさか!」
「ああ、行くんだよ。武を連れ戻しに」
父さんが俺の右肩を掴んだ。
「俺が行かせると思っているのか?俺がお前にさっきの事を言ったのは、お前の夢のことで言っただけであって、行かせるために言ったんじゃない!」
「俺は行く」
振り払って、ドアノブに手を掛けた。が、開こうとした扉を、父さんはぐっと押さえた。
「俺の一人息子を、みすみす危険の中に放り込むような真似を、するわけがないだろ!」
鬼のような形相だった。そんな顔は、見た事がなかった。必死、そう、必死。
「行かせろよ!武を連れ戻せるかもしれないんだろ!」
「駄目だ。あくまで仮説の話だと、そう言っただろ!」
「…分かってる」
「分かってないだろ!」
「分かってるよ!」
父さんの声はどんどん激しさを増し、大きくなっていく。
「だいたい、お前が無事に戻ってこれるのかも、分からないんだぞ!」
「…たとえ、現実がそうだとしても、可能性が1パーセントでもあるんなら、行くってのが筋だろ。第一、俺の人生に後悔なんて残したくないんだよ!」
俺の声がびりびりと耳に轟く。負けるもんか。俺はきりっと父さんの目をにらみ返す。
沈黙が続く。だが、それも長くは続かない。
父さんの目が一瞬揺らいだように見えた。
「……行けよ」
父さんの口からこぼれた言葉。
「もういい…行け」
押さえていた手が扉から、すっと離れた。そして、諦めたかのように俺から離れ、椅子に座り直し、冷め切ったコーヒーを一口飲んだ。
「…父さん」
「俺の気が変わらないうちに…さっさと行け!」
びりびりと響く声。
「あ、ああ!」
俺は扉を開いた。そして、締める直前。
「健太、」
俺は閉じかけた扉の隙間から、覗くように父さんを見た。
「俺より先に死んだら、不孝もんだぞ」
「ああ、絶対に戻ってくる!」
がちゃりと、扉が閉ざされた。
薄暗い病室。
一人、コーヒーを飲む、健太の父。
秀喜。
「はぁ…」
深いため息をついた。
一人、まるで呪文を唱えているかのように、何かをぼそぼそと呟いている。
「子供は、親に似るって言うが、どうして、こうも似るんだろうな」
『秀喜、私の人生に、後悔なんて必要ない!』
頭に響く、女性の声。
「棗」
快晴で涼しげな風が吹いている。
川があって堤防がある。その土手は草原のように緑色に染まっている。緑のそこに寝そべりながら口笛を吹くのが俺の毎日の日課。
「♪」
蒼い空は本当に気持ちが良い。それに加えて、涼しげな風も、また格別。
「なんて、空は広いんだ」
手を空に向かって思い切り伸ばし、背伸びをする。そして、空を見る。
蒼い空をゆっくりと泳ぐ白い雲。蒼と白のコントラストは実に良い。
と、それが突然にして、暗く見えなくなった。
「ん?」
なんだ?人?
逆光で誰なのか分からない。それは、こう呟いた。
「ん?じゃないよ。いつまで寝てるんだい?とっくに約束の時間、過ぎてるじゃないか」
この声は…。
段々と目が慣れてきて、「あ」と呟く。
「まだ寝ぼけてるのかい」
親友で、幼馴染みの【真藤 武】。
「武」
「ん?」
「また見たよ。最近見る、いつも同じ夢」
「ん」
髪をなびかせて、右手に本を、左手に鞄を持つ武。どこか遠くを見つめている。昔っから変わらない。
「そう」
彼はどこを見ているのだろう。
蒼い空?
白い雲?
緑の山々?
彼の瞳には何が映っているだろう。
以前、武に聞いたことがある。
『武、お前、何を見てるんだ?』
『さぁね』
と。武はぽつりと呟いて
『僕にも分からないんだ』
助けを求めているのか求めていないのか、分からない境界線でとどまるようなその声を、俺は敢えて触れなかった。
ふと、右腕に巻いた腕時計に目をやる。
「んあっ!やっば、もうこんな時間かよ!」
「そうさっきから言ってる。話をちゃんと聞きなよ」
「悪ぃ」
笑って誤魔化す。
「行くよ」
本を脇に挟んで、手を差し伸べる武。
「ああ!」
その手をぐっと握って立ち上がる俺。
二人全力で走って、学校まで駆ける俺達。
「ふぅ」
ぎりぎり間に合って安堵の息を漏らす武。
「はっ」
その姿を見て笑う俺。
これも毎日の日課。
明日も。
そのはずだったんだ。
俺は病院に駆けつけた。
この病院は父さんが開業した病院。
武はここに運ばれた。
あれは、昼休みが終わってからの四限目が始まった直後の事だった。
五限目は、確か数学だったな。ん?待てよ…。
俺は鞄から数学のノートを引っ張り出して中を開いた。今日の日付、宿題の問題番号…その下は…。
真っ白。
しまった!宿題を家に忘れた、と見せかけてやり忘れてしまった!
武は俺の席の前。
肩をとんとんと叩く。武が振り向く。
その武が振り向く直前、俺は心の中で呟いた。「宿題のノートを丸写しするから貸してくれ」だなんて、流石に一週間連続で言えるはずがない。絶対にバレるわけにはいかないぞ、健太。分かっているな?俺は「宿題やってるに決まってるだろ。流石に一週間で学習するよ」オーラを自然に出しつつ、「ちょっと分からない問題があったんだ。武、貸してくれないか」だのと言ってノートを拝借。そして、全力かつ最速でノートを書き写す。後は、何喰わぬ顔で「流石、武」と言うだけ。簡単な事だろ、健太。
よし!
決心はついた。
俺は真顔で武に話しかけた。
「武。お前、ちゃんと宿題やってきたか?」
だが、何故かバレた。
「健太…もしか、」
武はむっと不機嫌な表情をしながら言っているのを断ち切るように、「頼む!」と俺は頭を自分の机に叩きつけた。
「ん。分かったよ。貸すから、頭上げて。恥ずかしいだろ」
「流石、武」
俺の計画とは大きく外れたが、終わり良ければ全て良しだな。
「はい。ノート、ちゃんと返しなよ」
俺はノートを武から受け取って、ペンを握る。
そのとき、何かが床に倒れ込む音がした。おそらく誰かの鞄が床に落ちたのだろう。見向きもしなかった。
武のノートを確認すると、量的に三ページ半。紙をめくり、その計算式を目に焼きつかせながら、「十分で写す」と呟いた。
だが、武は答えてくれなかった。いつもの「ん」を。
何故?どうして?
俺はまだ、計算式を目に焼きつけていた。疑問は頭に浮かばせながら。
唐突に、周りの女子たちの悲鳴が。武の名を呼ぶ声が。教室内をざわめく友人たちの声が。一斉に俺の耳に飛び込んできた。
さっき俺の頭に浮かんだ疑問の答えは、武に聞くまでもなかった。頭を上げれば答えはあった。
武が椅子から転げ落ちていたのだ。ただそれだけのこと。
それだけ?
それだけ、じゃない。床に倒れたままの武はまったく動かない。
数学の先生は血相を変えて懐から携帯を取り出して救急車を呼んでいる最中のようだった。
俺は倒れた武のそばに座り込んで肩に手を置いた。
「武、大丈夫か?」
俺は、武がゆっくりと目を開けて「ん」と言ってくれると願った。
武は、動かない。
「武…、武!しっかりしろよ!」
「藤代、離れるんだ。救急隊員が来た。後は任せよう」
先生の声。そして、教室の扉が勢いよく開く。
「救急の者ですが、倒れた生徒さんは?」
「あちらです」
救急隊員たちが武を取り囲む生徒たちの中をかき分けていく。そして、俺の前まで。
「離れてください!さぁ、離れて!」
俺は静かに立ち上がると、その場を言われた通りに離れた。
「呼吸は安定している。よし。病院に搬送するぞ」
「担架に乗せる。いくぞ。1、2、3!」
俺が聞いた救急隊員の声はそれだけだった。その後の発言は覚えていない。
受付に行き、どの病棟、どこの病室かを聞き、俺は再び病院内を走り回った。
張り紙『病院内は静かに』。そんなもの目に入る訳もなく、俺は武のいる病室の扉を開いた。
「武!武!」
俺と武の間には一枚のガラスが隔ててあった。武を隔離しているようだ。
向こう側には防護服を来た医師や看護師やらが検査を黙々と続けている。
隔離システムなのか。それほどやばい病気なのだろうか。
ガラスの向こうには病院の白いベッドに寝かされた武が死んだように眠っている。
こちらの声は完全に遮断されているらしい。
一際甲高い声が室内に響き渡った。
「藤代先生、うちの武はどうなんですか!」
武のお母さん、【真藤 満江】さんだ。
よく武の家に遊びに行って、お茶を出してくれた人だ。優しくて、子供には人一倍厳しい人。
武は怒られても「ん」しか言わなかったから、呆れられていたな…。
でも、今の顔は涙でくしゃくしゃになっている。
「病名は何なんです」
満江さんの話す相手、つまり武の担当医は、やっぱり父さんだ。
名前は【藤代 秀喜】。
救急患者や、重症患者は全て父さんが治療している。
父さんには医者の中の医者とも言える、誰にも負けない熱意があるのを知っていた。何事にも冷静に対処し、消えそうな命を救ったり、治せない患者なんていなかった。
だから、半分は安心していた。きっと治るだろう、と。
だが、もう半分は違っていた。不安。嫌な予感とも言える。
「武君の病名だが、何て言えば良いのか…」
顔行きがどんどん曇っていく。そのうえ、下唇をかみしめ、両拳を握りしめてわなわなと震わせている。
「あ、ありのままの事を…。正直にお願いします、先生」
「それが…」
「…はい」
「分からないんだ」
「分からないって…どういう事ですの!」
「この病状は、どの文献、どの論文、医学書を見ても存在しない。もっと言えば、この状態を病気だということ自体あり得ない」
「あ、あり得ない…?」
父さんは、俺の方を向くなり申し訳なさそうな表情をした。
「脈も正常、発熱もなく呼吸も正常。外傷も無し。CTも撮った。だが、何も無いと言われるばかり」
「じゃあ、健康体って事じゃ…!」
俺がつい割り込んでしまった。だが、父さんはその質問にも冷静に対応する。
「そう。何もかもが正常。にも関わらず!武君は未明の昏睡状態」
すらすらと何の間もなく言いのけた。
「何が言いたいのですか…?」
「医者として、私が言いたいのは。これが武君の自作自演…。っ!」
父さんの顔が真横に向く。一瞬の出来事だった。満江さんが父さんの顔を引っ叩いたのだ。
満江さんの目に涙が溜まる。その涙が耐えきれずに頬に落ちて、伝い地面に落ちる。その地面に落ちた涙を満江さんは足で踏みつぶした。
「そんなっ、そんな馬鹿なことを言わないで下さいよ!親を泣かせてまで、自作自演をする子が何処にいますか!先生にもとうとう焼きが回りましたか!」
頬をさすりながら、父さんは涙目の満江さんに振り向きなおる。
「落ち着い、」
「これが落ち着いていられますか!先生、あなたは今、うちの武を侮辱したんですよ!今!ここで!まだ分かりませんか!せんせ、」
再び引っ叩こうとした満江さんの手を止めた父さんは、直ぐに口を開いた。
「最後まで話を聞くんだ!自作自演もしくは、」
「――――の可能性があるんだ!」
俺は、耳を疑った。おそらく満江さんも同じだろう。
嘘だろう。父さん、嘘だと言ってくれ。
「そんな…」
満江さんの膝が折れ、床に両手をついた。嗚咽と共にあふれ出す涙。
俺は眠ったままの武に目を移した。一枚のガラスを両拳で力一杯叩く。声が届かないと分かっていても、俺は叫んでいた。
武、頼む。目を覚ましてくれ。自作自演だったとしても、誰も責めないからさ。
両拳が血塗れになっても叩き続ける。だが、武は目を覚ますどころか、身体一つ動かさず、ただ死んだように寝ているだけ。
「落ち着くんだ。健太!」
父さんが俺をぐっと抱きすくめる。
満江さんの泣く声が聞こえる。
武が、そんな、そんな、そんな、武が。
『Last Day』だなんて…。
「ふわぁ~。ん?」
蒼い空の下、緑の野原。いつもの 日課。俺は、そこにいた。
「俺、寝ちまってたのか…ははっ」
何も変わらない、穏やかな日常。
俺は起き上がって辺りを見回す。
「武、待たせたな…って、……居ないんだったな」
心にぽっかりと開いた穴のようなもの。武が元気になって戻ってくれば元通りの生活に、日常に戻るはず。
「武…」
顔を上げる。
川の流れる音がする。
風の吹いている音がする。
俺は何を見ているんだろう。
俺の目には何が映っているのだろう。
「どうしたんだい?浮かない顔をして」
聞き覚えのある声がした。
でも、ここに武が居るはずがない。
「ん」
俺は身体をぴくりとも動かさず何かを見つめる。
「何があったんだい?」
風でなびく銀色の髪を押さえながら、彼は訪ねた。
「ん」
俺は何かを眺めていた。
何か、それは俺には分からない。
何も考えてはいなかった。
何も考えたくなかった。
「ふぅ」
ため息をついたようだ。
「分かるよ。その気持ち。僕と同じ…」
「ん。そう」
何かを言いかけていたが、もういいんだ。
沈黙が流れる。
長くも短くもない沈黙だった。
そして、その沈黙の崩壊が訪れた。
「君は、何を見ているの?」
どこかで聞いたことのある台詞を彼は口にした。俺は彼の方を向いた。彼の口元は微かに笑っているように見えた。
顔が見えない。まるで、霧のような。影だ。だが、顔に影なんかつくはずがない。逆光?それもない。そんな事はどうだっていい。
お前は、本当に…?
「た、けし…?」
「ん」
俺は夢を見ているのか。夢だとして、よりにもよって武が出る夢なんて。
「僕は倒れた。健太、君の目の前で」
「何…?」
これは、夢なのか。
夢じゃない、のか。
どっちなんだ。俺の中で、二つの選択肢が揺れる。
「これは夢かもしれない。現実かもしれない。ここは何処なのか?それは、僕にも分からない。そして僕は、あとわずかしか生きてられない」
「何で分かるんだよ」
「…」
「『Last Day』だからかよ」
「ん」
そう言うと片手に持っていた本をぱらぱらとめくり始めた。
「どうして醒まさないんだよ?」
「…」
「夢なら醒めるだろ?」
「…」
「武の母さんだって泣いて待ってる。俺だって待ってんだからよ」
「…」
武の手から、本がこぼれるように落ちた。
「戻ってきてくれよ、武!」
「……、戻れないんだ。僕は扉を開ける鍵を失くした…。だから」
「戻れない?逃げてるだけじゃんか!」
武の肩をぐっと握り締め、引き寄せた。
武は下を向いたまま、動かない。
「武を失ったら俺はどうすりゃ良いんだよ!」
「…」
武は、俺の手をいとも簡単に振り解き、そのまま俺に背を向けた。そして足を進める。
「おいっ!武!待てって!どこへ行くんだよ!」
どんどん離れていく。武が、俺の前から。
目が霞む。身体が揺らぐ。
待ってくれ、武。行っちゃ駄目だ。
俺に背を向け、歩く武。俺はその武を走って追いかける。
身体が重い。俺の追いかける速さより、彼は断然早く前を歩いていく。
最大限に手を伸ばして、口を思いっきり開いて、腹の底から。
「武ぃぃぃぃぃぃ!!!」
と、同時に俺は地面に倒れ伏した。
力が一気に抜け落ちる。
彼はだんだんぼやけていき、俺の視界から完全に消えた。俺に眠気が襲う。
「武…武…た…けし………け………ぃ……」
「――――武!」
青空なんかない。
白い天井。白いベッド。
ここは、病院?
そっか。
俺、あれから気を失ったのか…。
「健太、大丈夫なのか?」
横から、父さんの声が聞こえた。つきっきりだったのか、机の上には空の紙コップやらが幾つも置かれてあった。
「突然気を失って、そりゃあ、お前の昔っからの幼馴染みが倒れたんだから、無理もないが…。ほい、コーヒーだ」
俺の目の前に、まだ湯気の立っている紙コップを差し出した。
口を閉ざしたまま、首を横に振る。
「嫌いだったか?」
「今はいい」
「そう…か」
静かに机の上に置くと、父さんは心配そうに顔を覗き込んできた。
「何だよ?」
「さっきより顔色が悪い」
「気のせいだ」
「どうした?」
父さんは机の上のコーヒーの入ったコップに手を伸ばした。黙ったままの俺を眺めたまま、俺に渡そうとしたコーヒーを一口飲んだ。
その様子を黙って眺める俺。そして、眺めあう父さんの目がコーヒーに。
「あっ、いけね」
状況に気づいたのか、父さんは直ぐさまコップを戻した。もう湯気は立っていない。
「いいよ…別に」
そう言うと、頭を垂れるように俺はため息をついた。
沈黙。
何も喋ることが思い浮かばず、頭は武のことでいっぱい。あの夢の事も。
この沈黙はとにかく長かった。
と、唐突に、父さんはため息をついて立ち上がった。
そして、一、二歩歩いて、こう言った。
「いつからだ?妙な夢を見るのは」
「え?」
「最近か?」
俺は軽く頷いた。
父さんは「そうか」と言って、深く考え込んだ。
そして、沈黙。
この沈黙になって、俺の疑念が確信へと変わった。
父さんは、何か知っているんじゃないか?と。
「父さん…」
小さく呟く。
「ん?どうした?」
「俺さ、時折、そうなんじゃないかって思うことがあるんだ。俺…いや、俺も『Last Day』なんじゃないかって」
父さんの表情が険しくなる。
「何馬鹿なことを…」とでも言うのだろうか。
怒られてしまうのだろうか。
笑って済まされるのだろうか。
だが、その予測は全く外れていた。
「50点だな」
大真面目に答えは返ってきた。
だが、その意味が分からない。
「どういう…」
「お前は、正確には、『Harf Last Day Antibody』。医療用語で『H.LDA』【ハーフ エルダ】と言うんだが。その中でも希少な人間なんだ」
「…」
「人間の負の感情?」
「例えば、怒り。悲しみ。恨み。妬み。色々あるが、それが解消出来ずに溜まっていたりすると『Last Day』になる可能性が高まる」
「武の負の…、まさか…」と、父さんに聞こえない声で呟いた。
「その部分を解消すれば、武君を戻せるかもしれない。まぁ、あくまで俺の仮説の話だがな。忘れてくれ」
父さんは一息をついて、冷めたコーヒーを一口飲んだ。
「そういや、俺が、その…希少種?あれ、どういう意味だよ?」
父さんはごくりとコーヒーを飲んだ。俺に目を移し、そして揺らぐコーヒーの表面を見つめた。黒い面が、父さんの顔を映し出す。
「…お前は『Last Day』に侵された人間の夢に干渉することが出来る」
俺の全身に衝撃が走った。
でも、待てよ…。じゃあ、もしかすると、もしかすれば…。
武を助けられるんじゃないのか?
「まぁ、長年の研究の結論だな」
こんな事をしてる場合じゃないだろう。
俺はベッドから跳ね起きた。
「おい、健太。どこ行くんだ?」
武が消える前に。
俺は扉の前に立った直後、父さんは椅子をはじき飛ばす勢いで立ち上がった。
「お前、まさか!」
「ああ、行くんだよ。武を連れ戻しに」
父さんが俺の右肩を掴んだ。
「俺が行かせると思っているのか?俺がお前にさっきの事を言ったのは、お前の夢のことで言っただけであって、行かせるために言ったんじゃない!」
「俺は行く」
振り払って、ドアノブに手を掛けた。が、開こうとした扉を、父さんはぐっと押さえた。
「俺の一人息子を、みすみす危険の中に放り込むような真似を、するわけがないだろ!」
鬼のような形相だった。そんな顔は、見た事がなかった。必死、そう、必死。
「行かせろよ!武を連れ戻せるかもしれないんだろ!」
「駄目だ。あくまで仮説の話だと、そう言っただろ!」
「…分かってる」
「分かってないだろ!」
「分かってるよ!」
父さんの声はどんどん激しさを増し、大きくなっていく。
「だいたい、お前が無事に戻ってこれるのかも、分からないんだぞ!」
「…たとえ、現実がそうだとしても、可能性が1パーセントでもあるんなら、行くってのが筋だろ。第一、俺の人生に後悔なんて残したくないんだよ!」
俺の声がびりびりと耳に轟く。負けるもんか。俺はきりっと父さんの目をにらみ返す。
沈黙が続く。だが、それも長くは続かない。
父さんの目が一瞬揺らいだように見えた。
「……行けよ」
父さんの口からこぼれた言葉。
「もういい…行け」
押さえていた手が扉から、すっと離れた。そして、諦めたかのように俺から離れ、椅子に座り直し、冷め切ったコーヒーを一口飲んだ。
「…父さん」
「俺の気が変わらないうちに…さっさと行け!」
びりびりと響く声。
「あ、ああ!」
俺は扉を開いた。そして、締める直前。
「健太、」
俺は閉じかけた扉の隙間から、覗くように父さんを見た。
「俺より先に死んだら、不孝もんだぞ」
「ああ、絶対に戻ってくる!」
がちゃりと、扉が閉ざされた。
薄暗い病室。
一人、コーヒーを飲む、健太の父。
秀喜。
「はぁ…」
深いため息をついた。
一人、まるで呪文を唱えているかのように、何かをぼそぼそと呟いている。
「子供は、親に似るって言うが、どうして、こうも似るんだろうな」
『秀喜、私の人生に、後悔なんて必要ない!』
頭に響く、女性の声。
「棗」
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