俺は、武を救えなかった。
間に合わなかった。
俺は膝を折り、両手を付いて泣き叫んだ。
満江さんの気持ちがもう充分にとめどなく溢れ出してくる。
絶望感だけが残った。
心も身体も悲鳴をあげていた。
「くっ、クソがぁああああああああ…!」
まだ…。まだなんだ!
何かあるはずなんだ。
まだ…、何か…。
辺りの景観が崩れ始める。
ここの創造主の武が消滅したんだ。無理もない、か。
蒼い空も、白い雲も、緑の野原も。
澄んだ川も、堤防も。
あの日自体が、全部無かったかのように。
やがて、何も無くなった。
光が閉ざされた、真っ暗な空間。
俺はその場にへたれ込んだ。
少しの勇気で。
変われる。
僕は足という足に力を入れて立ち上がった。
そして、口という口を開いた。
「僕は…美紀という夢を追っていた。僕は、もう…分かったよ」
『…本当に、それで良いの?』
彼女はただ優しく、僕の顔を見つめていた。
最初からそのつもりだったのか。
僕には分からない。
「美紀に会えたのは、幻でも夢でも、嬉しかった」
現実から目を背けるのは、もう止めるよ。
『真藤…君?』
生きている僕は、死んでいる君と一緒に居られない。
これは、病んでしまったこの僕の、何も分からなくなったこの僕の、美紀から与えられた試練だったのかもしれない。
「美紀…」
僕の両眼から涙が溢れる。
「ありがとな…」
『…うん』
そう言った美紀は怒っていなかった。泣いていなかった。
笑っていた。
安心。
その言葉に尽きていた。
『私は、ずっと、真藤君の傍に居るから。じゃあ…ね……』
美紀は、消えた。
僕の目の前から。
もう二度と現れない。
そんな気がした。
「現実と夢、か」
景観が崩れ始める。
『戻れなく、なっちゃったなぁ…』
どこからか聞こえた健太の声。
健太…。
今、行くよ。
そっちに…。
僕は真っ黒なこの場を色鮮やかに描いてみた。
思い出して、思い出して、思い出して、思い出して。
そして、描いていく。
夢を創る。
夢に似せた現実を創る。
僕は現実に似た夢を自ら創り上げてしまった。
夢なら何でも出来るんだ。
なら、現実を創る。
夢に似た現実を僕は創り上げる事が出来るんじゃないのか?
帰れるんじゃないのか?
――希望がある。
ポケットに直し込んでいた三つの三色の飴。
一緒に食べよう。
青い飴は青空の飴。
白い飴は雲の飴。
緑の飴は野原の飴。
さあ、健太、帰ろうか。
僕は、それら全てを口の中に放り込み、目を閉じた。
そして、願った。
『あの日の事を思い出そう』
「…やっぱり、諦められねぇよ。武、ここまで来たんだ。俺は絶対、お前を連れて帰る!」
って、叫んだって武が聞いている保障もない、か。
「弱ったなぁ…ん?」
何だ?
ポケットの中が熱い。
熱い?
俺は、その中に手を入れて、触れたものを手のひらに出した。
『一緒に食べよう』
誰かの意志がそれから手に流れ込んだ。
誰か、それはもちろん。
「はっ」
武、まだ、諦めてねぇのな。
これは、貸しだぜ。
俺は、手のひらに置いた三色の飴を、全て口の中に放り込んで、目を閉じた。
『あの日の事を思い出してやるさ』
そして、俺は願った。
健太が眠りについてから、23時間と55分。
武君も未だ目を覚まさず。
『Last Day』と推測すれば、武君の余命の残り時間は――あと、5分…。
「藤代先生。コーヒーです」
助手の【森北 里美】だ。
「ああ。助かるよ」
武君が、もしも、間に合わなければ、とすると。
健太は、どうなる?
「どう、ですか?」
「ん?」
「武君の容体は」
「何にも変わらないさ」
「そうですか…」
廊下を走っている。騒がしい足音が近づいてくるのが分かった。
それはこの部屋の扉を勢いよく開いた。
【仲林 深条】先生か。
「藤代先生!人手が足りないので、手を貸してください!」
「何だ?」
「四階の盃さんが飛び降り自殺を計ろうと、でも未遂で、重傷です」
右手のひらを額にあてがい、深いため息をついてしまった。
「何もこんな時に…」
「す、すいません」
「どうして、お前が謝る?謝る必要なんかない」
部屋の扉の前で、叫ぶ仲林は息を切らせて、顔色が悪い。
「…先生」
森北が小さく呟く。
「行くぞ、森北」
俺は、足を進めた。
「でも、武君たちは」
その足を止めてしまった。
だが、俺も医師だ。
医師なんだ。
多くの人間を救わなければならない。
「ここに戻ってきた時が、最期なんだな」
ぼそっと呟く俺を、助手の森北はただ見つめるだけだった。
「藤代先生!」
空気を割るような声。
「ああ。今から行くから、馬鹿でかい声を出すな」
「…先生」
部屋を飛び出し、藤代の後を歩く森北。
彼女はただただ藤代の背中を見つめるだけしか出来ないでいた。
「容体は?」
「頭蓋骨骨折、胸部、腹部、脚部、それぞれ複数骨折…」
数枚あるカルテを何度も見直す仲林。
「心肺停止は?」
「いえ、まだ、ありません」
「そうか、他の先生方にも声を。厳しいオペになるな」
「分かりました」
仲林が森北の横を通り抜けた。
その時、森北の頭に二人の顔がふと描かれた。
「武君。健太君…」
無事でいて…。
「森北、早くしろ」
はっ、言われるまで気がつかなかった。
私はいつから立ち止まっていたのだろう。
私は医師なんだ。
医師だから…。
「はい、今行きます」
裸足で歩く音がする。
ぺた、ぺた、ぺた、と。
「健太…どこにいる…?」
廊下を歩いていたのは、目を醒ました武だった。
手を握り合っていた感触が残っている。
武は近くにいるのか。
まず、ここは何処なのか。
真っ暗で真っ暗な真っ暗の部屋。
天国?
にしては、暗い。
地獄?
にしては、怖くない。
静かだ。
もっとも静か過ぎるくらいなのかもしれない。
ひとけがないと言ってもいい。
「ん?君は、どこの誰?」
後ろを振り向くと、小柄で眼鏡を掛けた青年が立っていた。
右手には小説か何かを携えている。
スポットライトのようなものを浴びていて、その青年だけが目に映っていた。
「俺は、藤代健太。お前は?」
「…」
ただ、黙っていた。
俯いて、動かない。
「そっか。言いたくないのな。そういう時もある」
「…君、変わってるよ」
静かな口調で応える青年。眼鏡を中指で軽く上げる素振りを見せ、どこか頭が良さそうにも見える。
「ははっ、よく言われるよ。でも、何でそう思ったんだ?」
「初めて会ったってのに、まるで知り合いのように話す。ここがどこかも分からないのに。不安じゃないのかい?」
「ああ」
「どうして?」
「親友が待ってるからな」
「親友、か…」
何かを言いたそうな彼は、一度黙りこんで、口を開いた。
「僕は…」
またしても沈黙。そして、ゆっくりと目を閉ざす。
「いや、いいんだ」
彼は俺に背を向け、足を一歩スポットライトの外へ出した。
「おい、どこに行くつもりなんだ?」
「僕の世界に、戻るとするよ」
「世界…?」
「そう。僕は僕の、君は君の世界がある」
「どういう意味だ?」
「…また会えるといいね」
続けて、呟く。
「楽しかったよ……」
彼はスポットライトの外に出、闇の中へ消えてしまった。
「あ、おいっ!」
スポットライトが消えていく。彼の姿はもう何もなかった。
…それで、いったいここはどこなんだ?
真っ暗な闇に光が入った。辺りが眩く、一変したのだ。
なんだ…眩しいな…。
手を目に被せるようにして、光を遮る。
「ここは、どこだ?」
「健太…、良かった…」
武?
声が聞こえる。
視界がぼやけてよく見えない。
誰かいるのはすぐに分かるが…。
「武なのか?」
「ああ」
「ここは、まだ、夢なのか?」
「心配するな。現実だ」
「父さん?」
「心配させやがって」
健太は笑みをこぼした。
「まっ」
横たわった身体を起こして、ベッドから足を投げ出した。
「飯だ。飯。父さん、何かないのか?」
犬のように下を出し、物欲しそうに言った健太。
「そんなに元気なら、外で食いに行け」
そう言いながら、顎で指図した。
「へいへい。あっ。武、借りてくぜ」
「あ、ちょっ…、行っちゃった。良いんですか?先生」
「あんだけ元気なら、もう大丈夫だ。武君のお陰で色々とわかった事もあったしな」
「はい、確かに」
「これからが、俺たち医者の、『Last Day』との戦いだ。何とかデータを集め、予測と仮定に基づく基盤を作り上げなければならない。絶対にこれ以上犠牲者など出すもんか」
藤代の両拳は極限まで握り締められ、その姿は怒りと覚悟をも物語っていた。
「この病は、本当に食い止められるのかな…。ううん、そんな事思っちゃ駄目。私も医者なんだから。でも…」
森北の両手は小刻みに震え、どこか不安と怯えが垣間見得た。
エレベーターの中で2人は賑やかに喋っている。
「よし、武。生還祝いにパァーッとすっか?」
健太は一階のボタンをぽちりと押した。
「お酒は駄目だよ」
そう言いながら武は乗り込むと、背中すれすれで扉が閉まった。
「分かってる。分かってる」
「分かってないよね」
「ははっ」
健太のいつもの笑い。
その後の沈黙。
変わらない。
でも、それを健太は破った。
「あの時の借りは、いつか返すぜ」
「…ああ」
いつも僕が助けられていたのに、こんな僕でも健太を救える日が来るなんて。
一生の思い出だな。
エレベーターが止まった。
病院の一階。
ゆっくりとエレベーターの扉が開いた。
扉の外に女医と看護士。
移動式ベッドで誰かが運ばれているようだった。
「四階から飛び降りるなんてね。自殺なんて…」
…何だ?
この胸騒ぎは…。
「僕の意識が戻る前に、病院で飛び降り自殺した人がいたんだ」
嫌な予感がする…。
健太と武がエレベーターを出ると同時に彼女達はエレベーターに乗り込もうとした。
まさか…そんな筈はないだろうな…。
「エレベーターに乗りますよ」
女医の声。
ベッドが二人の前を通過した、その時。
「っ!盃?!」
武がベッドに凄まじい勢いで駆け寄った。
「盃っ!お前っ、何でだよ!」
武が嘆き叫ぶ、一方で、健太は呆然と彼の顔を眺めていた。
嘘だろ…。
そんな…馬鹿な…。
『…また会えるといいね』
頭にこだまする/あの青年の声/青年の顔/青年の姿/あの夢。
これは偶然なのか?
それとも。
必然なのか?
武を置いて、そのエレベーターの扉はがちゃりと音を立てて閉まり切った。
間に合わなかった。
俺は膝を折り、両手を付いて泣き叫んだ。
満江さんの気持ちがもう充分にとめどなく溢れ出してくる。
絶望感だけが残った。
心も身体も悲鳴をあげていた。
「くっ、クソがぁああああああああ…!」
まだ…。まだなんだ!
何かあるはずなんだ。
まだ…、何か…。
辺りの景観が崩れ始める。
ここの創造主の武が消滅したんだ。無理もない、か。
蒼い空も、白い雲も、緑の野原も。
澄んだ川も、堤防も。
あの日自体が、全部無かったかのように。
やがて、何も無くなった。
光が閉ざされた、真っ暗な空間。
俺はその場にへたれ込んだ。
少しの勇気で。
変われる。
僕は足という足に力を入れて立ち上がった。
そして、口という口を開いた。
「僕は…美紀という夢を追っていた。僕は、もう…分かったよ」
『…本当に、それで良いの?』
彼女はただ優しく、僕の顔を見つめていた。
最初からそのつもりだったのか。
僕には分からない。
「美紀に会えたのは、幻でも夢でも、嬉しかった」
現実から目を背けるのは、もう止めるよ。
『真藤…君?』
生きている僕は、死んでいる君と一緒に居られない。
これは、病んでしまったこの僕の、何も分からなくなったこの僕の、美紀から与えられた試練だったのかもしれない。
「美紀…」
僕の両眼から涙が溢れる。
「ありがとな…」
『…うん』
そう言った美紀は怒っていなかった。泣いていなかった。
笑っていた。
安心。
その言葉に尽きていた。
『私は、ずっと、真藤君の傍に居るから。じゃあ…ね……』
美紀は、消えた。
僕の目の前から。
もう二度と現れない。
そんな気がした。
「現実と夢、か」
景観が崩れ始める。
『戻れなく、なっちゃったなぁ…』
どこからか聞こえた健太の声。
健太…。
今、行くよ。
そっちに…。
僕は真っ黒なこの場を色鮮やかに描いてみた。
思い出して、思い出して、思い出して、思い出して。
そして、描いていく。
夢を創る。
夢に似せた現実を創る。
僕は現実に似た夢を自ら創り上げてしまった。
夢なら何でも出来るんだ。
なら、現実を創る。
夢に似た現実を僕は創り上げる事が出来るんじゃないのか?
帰れるんじゃないのか?
――希望がある。
ポケットに直し込んでいた三つの三色の飴。
一緒に食べよう。
青い飴は青空の飴。
白い飴は雲の飴。
緑の飴は野原の飴。
さあ、健太、帰ろうか。
僕は、それら全てを口の中に放り込み、目を閉じた。
そして、願った。
『あの日の事を思い出そう』
「…やっぱり、諦められねぇよ。武、ここまで来たんだ。俺は絶対、お前を連れて帰る!」
って、叫んだって武が聞いている保障もない、か。
「弱ったなぁ…ん?」
何だ?
ポケットの中が熱い。
熱い?
俺は、その中に手を入れて、触れたものを手のひらに出した。
『一緒に食べよう』
誰かの意志がそれから手に流れ込んだ。
誰か、それはもちろん。
「はっ」
武、まだ、諦めてねぇのな。
これは、貸しだぜ。
俺は、手のひらに置いた三色の飴を、全て口の中に放り込んで、目を閉じた。
『あの日の事を思い出してやるさ』
そして、俺は願った。
健太が眠りについてから、23時間と55分。
武君も未だ目を覚まさず。
『Last Day』と推測すれば、武君の余命の残り時間は――あと、5分…。
「藤代先生。コーヒーです」
助手の【森北 里美】だ。
「ああ。助かるよ」
武君が、もしも、間に合わなければ、とすると。
健太は、どうなる?
「どう、ですか?」
「ん?」
「武君の容体は」
「何にも変わらないさ」
「そうですか…」
廊下を走っている。騒がしい足音が近づいてくるのが分かった。
それはこの部屋の扉を勢いよく開いた。
【仲林 深条】先生か。
「藤代先生!人手が足りないので、手を貸してください!」
「何だ?」
「四階の盃さんが飛び降り自殺を計ろうと、でも未遂で、重傷です」
右手のひらを額にあてがい、深いため息をついてしまった。
「何もこんな時に…」
「す、すいません」
「どうして、お前が謝る?謝る必要なんかない」
部屋の扉の前で、叫ぶ仲林は息を切らせて、顔色が悪い。
「…先生」
森北が小さく呟く。
「行くぞ、森北」
俺は、足を進めた。
「でも、武君たちは」
その足を止めてしまった。
だが、俺も医師だ。
医師なんだ。
多くの人間を救わなければならない。
「ここに戻ってきた時が、最期なんだな」
ぼそっと呟く俺を、助手の森北はただ見つめるだけだった。
「藤代先生!」
空気を割るような声。
「ああ。今から行くから、馬鹿でかい声を出すな」
「…先生」
部屋を飛び出し、藤代の後を歩く森北。
彼女はただただ藤代の背中を見つめるだけしか出来ないでいた。
「容体は?」
「頭蓋骨骨折、胸部、腹部、脚部、それぞれ複数骨折…」
数枚あるカルテを何度も見直す仲林。
「心肺停止は?」
「いえ、まだ、ありません」
「そうか、他の先生方にも声を。厳しいオペになるな」
「分かりました」
仲林が森北の横を通り抜けた。
その時、森北の頭に二人の顔がふと描かれた。
「武君。健太君…」
無事でいて…。
「森北、早くしろ」
はっ、言われるまで気がつかなかった。
私はいつから立ち止まっていたのだろう。
私は医師なんだ。
医師だから…。
「はい、今行きます」
裸足で歩く音がする。
ぺた、ぺた、ぺた、と。
「健太…どこにいる…?」
廊下を歩いていたのは、目を醒ました武だった。
手を握り合っていた感触が残っている。
武は近くにいるのか。
まず、ここは何処なのか。
真っ暗で真っ暗な真っ暗の部屋。
天国?
にしては、暗い。
地獄?
にしては、怖くない。
静かだ。
もっとも静か過ぎるくらいなのかもしれない。
ひとけがないと言ってもいい。
「ん?君は、どこの誰?」
後ろを振り向くと、小柄で眼鏡を掛けた青年が立っていた。
右手には小説か何かを携えている。
スポットライトのようなものを浴びていて、その青年だけが目に映っていた。
「俺は、藤代健太。お前は?」
「…」
ただ、黙っていた。
俯いて、動かない。
「そっか。言いたくないのな。そういう時もある」
「…君、変わってるよ」
静かな口調で応える青年。眼鏡を中指で軽く上げる素振りを見せ、どこか頭が良さそうにも見える。
「ははっ、よく言われるよ。でも、何でそう思ったんだ?」
「初めて会ったってのに、まるで知り合いのように話す。ここがどこかも分からないのに。不安じゃないのかい?」
「ああ」
「どうして?」
「親友が待ってるからな」
「親友、か…」
何かを言いたそうな彼は、一度黙りこんで、口を開いた。
「僕は…」
またしても沈黙。そして、ゆっくりと目を閉ざす。
「いや、いいんだ」
彼は俺に背を向け、足を一歩スポットライトの外へ出した。
「おい、どこに行くつもりなんだ?」
「僕の世界に、戻るとするよ」
「世界…?」
「そう。僕は僕の、君は君の世界がある」
「どういう意味だ?」
「…また会えるといいね」
続けて、呟く。
「楽しかったよ……」
彼はスポットライトの外に出、闇の中へ消えてしまった。
「あ、おいっ!」
スポットライトが消えていく。彼の姿はもう何もなかった。
…それで、いったいここはどこなんだ?
真っ暗な闇に光が入った。辺りが眩く、一変したのだ。
なんだ…眩しいな…。
手を目に被せるようにして、光を遮る。
「ここは、どこだ?」
「健太…、良かった…」
武?
声が聞こえる。
視界がぼやけてよく見えない。
誰かいるのはすぐに分かるが…。
「武なのか?」
「ああ」
「ここは、まだ、夢なのか?」
「心配するな。現実だ」
「父さん?」
「心配させやがって」
健太は笑みをこぼした。
「まっ」
横たわった身体を起こして、ベッドから足を投げ出した。
「飯だ。飯。父さん、何かないのか?」
犬のように下を出し、物欲しそうに言った健太。
「そんなに元気なら、外で食いに行け」
そう言いながら、顎で指図した。
「へいへい。あっ。武、借りてくぜ」
「あ、ちょっ…、行っちゃった。良いんですか?先生」
「あんだけ元気なら、もう大丈夫だ。武君のお陰で色々とわかった事もあったしな」
「はい、確かに」
「これからが、俺たち医者の、『Last Day』との戦いだ。何とかデータを集め、予測と仮定に基づく基盤を作り上げなければならない。絶対にこれ以上犠牲者など出すもんか」
藤代の両拳は極限まで握り締められ、その姿は怒りと覚悟をも物語っていた。
「この病は、本当に食い止められるのかな…。ううん、そんな事思っちゃ駄目。私も医者なんだから。でも…」
森北の両手は小刻みに震え、どこか不安と怯えが垣間見得た。
エレベーターの中で2人は賑やかに喋っている。
「よし、武。生還祝いにパァーッとすっか?」
健太は一階のボタンをぽちりと押した。
「お酒は駄目だよ」
そう言いながら武は乗り込むと、背中すれすれで扉が閉まった。
「分かってる。分かってる」
「分かってないよね」
「ははっ」
健太のいつもの笑い。
その後の沈黙。
変わらない。
でも、それを健太は破った。
「あの時の借りは、いつか返すぜ」
「…ああ」
いつも僕が助けられていたのに、こんな僕でも健太を救える日が来るなんて。
一生の思い出だな。
エレベーターが止まった。
病院の一階。
ゆっくりとエレベーターの扉が開いた。
扉の外に女医と看護士。
移動式ベッドで誰かが運ばれているようだった。
「四階から飛び降りるなんてね。自殺なんて…」
…何だ?
この胸騒ぎは…。
「僕の意識が戻る前に、病院で飛び降り自殺した人がいたんだ」
嫌な予感がする…。
健太と武がエレベーターを出ると同時に彼女達はエレベーターに乗り込もうとした。
まさか…そんな筈はないだろうな…。
「エレベーターに乗りますよ」
女医の声。
ベッドが二人の前を通過した、その時。
「っ!盃?!」
武がベッドに凄まじい勢いで駆け寄った。
「盃っ!お前っ、何でだよ!」
武が嘆き叫ぶ、一方で、健太は呆然と彼の顔を眺めていた。
嘘だろ…。
そんな…馬鹿な…。
『…また会えるといいね』
頭にこだまする/あの青年の声/青年の顔/青年の姿/あの夢。
これは偶然なのか?
それとも。
必然なのか?
武を置いて、そのエレベーターの扉はがちゃりと音を立てて閉まり切った。
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