「う゛……う゛……」
男が小刻みに震え始める。
僕はじりじりと後ずさる。
足下にあったパイプが音をなして、転がる。
男の足下に赤いものが落ちた。
それは何らかの臓器のようなものである。
「う゛ぁぁぁぁ………」
白目を剥きながら、口を大きく開いていく男。
嫌な予感が再び起こる。
あの男を殺すべきか殺さないべきか。
僕の腕力ではこの距離は届かない。
かと言って、近づきたくはない。
そんな折、男が地面に大量の赤黒い血を吐いた。
な、なんだ…?
血の中に蠢く生物。
それが何なのか、高校の時図録の中で見たことのある生物。
「蛭…!」
だが、まだ嫌な予感は続く。
両方の目玉が外れ、地面にぽとりと落ちる。
別にそれは構わない。
見慣れた状況だ。
だが、僕は目を疑った。
目の中から覗く大量の蛭。
目からこぼれてしまい、地面に落ちてしまう蛭がいるほど、大量の蛭が男の身体の中で潜んでいた。
「う゛ぉおぉお…………」
口から吐き出す大量の血液に伴い、様々な臓器のようなものや、大量の蛭が地面に叩きつけられる。
辺り一面が真っ赤に染まり、酷い腐臭も漂う。
嗚咽感を覚え、顔をしかめる。
「な……」
一瞬の出来事だった。
男は身体という身体が崩れていく。
「ぅ゛……ぅ……」
蛭に身体の血を吸い尽くされ、肉をも食らわれ、男は身体を保てなくったのか。
理由は分からない。
だが、しかし、現実という現実に僕は戸惑いを覚える。
もはや男の姿形はなく、赤一色にまみれた蛭だけがそこで蠢いている。
蛭の進化形態なのか。
『蛭>人間』の構図が頭の中で成り立った。
食物連鎖を考えると、人間は頂点に君臨していたはずだ。
いや、そうでなくとも、上位に位置していた。
だが、今はどうなんだ?
人間が植物や動物を捕食していたにも関わらず、今現在、動物である、ましてや、下等生物に過ぎない蛭にまで捕食されているではないか。
僕は頭が熱くなるほど、考えはエスカレートしていく。
だが、直後、頭が真っ白になった。
そして、後頭部に走る急激な痛み。
視界がぼやけている。
視界がぐらついている。
「う……な、…なんだ……?」
背中に当たっているもの。
手で触れる。
それは冷たく、硬い。
それを掴み、目の前に持ってくる。
鉄パイプ…。
僕は立っていた。
なのに、僕は倒れている。
瓦礫の山にもたれかかって、倒れている。
何があった?
何が起こったんだ?
視力がじわじわと戻ってくる。
僕が立っていた位置を確認した。
誰かが立っている。
僕が立っていた場所に誰かが立っている。
サラリーマン風の男。
「う゛ぅ゛ぅぅ…………」
苦しそうな呻き声を出す。
視力はまだ完全ではない。
その男の顔がこちらに向く。
顔面蒼白で、左目にフォークのようなものが突き刺さっていた。
男が走ってきた。
速い。
だが、僕の足が動かない。
徐々に近づいてくるのが分かる。
哀しくも、視力だけが戻っていく。
掴んだ鉄パイプを、視力が完全ではないため、的が定まらないが、逃げる時間を少しでも作れるよう、男に向けて突き出した。
僕は足掻きと言えども、今出来る最上の攻撃をしたつもりだった。
その攻撃を察知したのか、それとも偶然なのか。
男は寸前のところで、ぴたっと立ち止まった。
「ぎぃ………?」
目と鼻の先のパイプの先をただ見つめている。
「う゛ぎぁ………」
口を開き始める男。
そして、そのパイプに噛みついた。
パイプをまるでマカロニのように噛み、飲み込んでいく男。
僕の手から武器という武器はなくなってしまった。
「う゛ぅぅ………」
口を開いて、それは僕の頭にかぶりつくように近づいてくる。
口臭が酷い。
血肉の腐った匂いが僕の鼻を麻痺させる。
「孝!」
聞き慣れた声が真っ直ぐ耳に入ってきた。
知奈の声。
「ぎゃっ…!」
そして、次に飛び込んできたのは、大口を開けた男の悲鳴。
僕が持っていた鉄棒が、男の脇腹にのめり込んでいた。
そして、そのまま数メートル横に吹っ飛ぶ。
目の前にいたのは先ほど助けようとしていた男。
「これで、借りは返したぜ」
にかっと笑う男は、僕に手を差し伸べる。
僕は生きているのか。
「ああ。ありがとう」
その手を握ると、男は力強く握り返し、立ち上がらせてくれた。
「俺の名前は、吉谷 健人」
がたいの強そうな青年。
「僕は、金井 孝」
頭の良さそうな青年。
「孝か、よろしくな」
個々に仲間だと感じる一瞬である。
「よろしく。健人」
個々に友達だと感じる一瞬である。
だが、その一瞬を裂くように、知奈の声が響く。
「奴らが来る!早くこっちに来な!」
二人のいる地点から三つ四つ離れた瓦礫の山を、歩き迫ってくる奴ら。
地面を真っ赤にして押し寄せてくる。
先頭が二人の視界に入った。
「なんて多さだ」
まるで蟻の大群を見ているかのような。
「さっさと逃げるぞ。これだと、勝ち目はない」
「同感だ」
二人は瓦礫の山を駆け上がり、まるで原爆を落とされたかのようにだだっ広いその場所を駆け抜けた。
途中で、知奈とも合流し、三人で瓦礫の山々を越えていく。
「そういや、孝。どこか行く当てはあるのか?」
健人が僕に尋ねてきた。
当て…つまり、
目的。
そうか、目的がなければ、ゴールに辿り着かない。
そうだ。
「まずは車を探す。それなりに丈夫な車を」
車に乗れば、取り敢えず硬い殻に守られる。
それに移動も早い。
「車か…。それはナイス案だな」
知奈の顔から自然と笑みがこぼれた。
だが、それには使える車があれば、の話だ。
こんな状況で使える車なんてあるのだろうか?
「車を見つけるんなら、国道に出なくちゃな」
きょろきょろと見回す僕を、健人は制した。
「おそらく、国道は無理だな」
「どうして?」
「国道は人が多い。あんな奴らがうようよしている可能性が高いんじゃないか?」
健人は顔をしかめる。
生と死。
可能性を突き詰めていく。
「確かに。一利あるな」
「だろ?」
「二人とも、あんまり喋ると、もたないよ」
あまり呼吸を乱したくないのか、知奈は淡々と呟く。奴らの呻き声は聞こえなくなってきた。
随分と距離を離したようだ。
いったん、呼吸を調えるため、三人は立ち止まった。
後ろを振り返る。
奴らは視界には入ってはいない。
視界には奴らは入っていなかったが、別のものが孝の目には入ってきた。
「…まただ」
健人と知奈が振り返る。
僕の視線の先は空に向けられている。
小さな燕のようなもの。
旅客機。
赤く燃え盛る旅客機が地面に向かって降下している。
「一つや二つじゃない」
知奈は辺りを見回している。
孝と健人も見回した。
まるで流星群のように、大量の赤く燃え盛る旅客機が飛び回っている。
いや、降下している。
「何が、起こってるんだ…?」
僕は呟く。
それらはまるで現実から非現実へと移り変わる時間だった。
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。